知的障害者グループホームの設立反対の件
横浜市に知的障害のグループホームを作ろうという計画に対して、近隣住民の了解を得られず断念せざるを得ない。という問題がありました。
近隣住民曰く、こんな施設ができるなら、お金があれば引っ越したい」「許可もなく事業概要に住所を入れている。不愉快だ」「住民感情になぜ配慮をしないのか」などだそうです。
住民感情とはどういうものなのでしょうか。
障害を持つ人は何をするか分からないから怖い。という気持ちなのでしょうか。
きっと、「障害がある人もいてもいいけど自分たちとは関係のないところにいてね」ということだと思いました。(違うかもしれません)
障害があろうがなかろうが、問題は全ての人が持っていて、何も問題のない人なんていないように思います。
と、同時に当事者としては常日頃の自分の行いには気をつけていこう、私と同じ障害を持った方に迷惑がかからないように責任ある行動を心がけようと思いました。
なんとも心がザワザワする事案でした。
良い循環が起きた出来事
今までゲームというのはほとんど実りのあるものは産み出さない、時間を浪費するものだと思っていた。
しかし、今回は違った。
家族と一悶着あって心がザワザワしていた時に、かわいいキャラクターの癒し系の簡単なゲームをしてみた。
気が付いたら不愉快だった気持ちも忘れリラックスしていた。
「ゲームで結構遊んじゃったな」と思ったので頑張ることもしないと、と思い立ち、その後、家の中でできる簡単なエクササイズで汗をかいて、その後ずっと読めていなかった本まで読むことができた。
本の内容も素晴らしくて、結果的にとてもいい時間を過ごすことが出来た。
ゲームってこういう使い方もあるんだ、と目から鱗な日だった。
ゲームといっても難しくてイライラするようなストレスが溜まるようなのはダメで、私には簡単にサクッと出来るものがあっているようです。
精神障害者も努力した方がいいと思う理由
前回の記事「障害者同士だってわかり合えない」のコメントで、「向上心のある精神障害者も痛々しいですよ」とのコメントがありました。このコメントについては、敵意と憎悪のみで書かれたコメントと判断しましたので削除しました。
が、しかし、書き方も少し良くなかった点や、補足する点もあると思ったので補足したいと思い書かせていただきます。
私自身が精神障害者として生きていて、世の中は精神障害者に優しくはできていない。というのは実感しています。むしろ厳しい。
障害者になってから全てオープンにて数か所仕事もしましたが、「障害があって大変だよね」みたい事はありませんし、体調不良で休みでもしたら文句を言われたりしていて、かなり大変ではありました。
だとしたらどうしたら障害を持っていてもより生きやすくできるかを考えて行動するしかないと思うのです。
世の中が勝手に自分が生きやすいシステムに変えてくれることはないのです。
だとしたら自分で知恵を絞って考えるしかない。
そこで大事だと思うのは、「できないことは多いけれども頑張ってるよね」って思ってもらえるような姿勢はみせていかないといけないと思いました。
自分発信でこういう条件であればちゃんと働けるとか、示していくのです。
まだ利用したことがないので分かりませんが、話を聞く限り障害者雇用であれば配慮はしてもらえるみたいです。
生活費に関しても、全て自分で賄うことはできないけど、できる分だけは自分で稼ごうとかそういう姿勢を見せていくことでしか、障害者に対する風当たりを変えていくことはできないのではないかな。
働くことが難しいなら近所のゴミ拾いをするとかでもいいような気もしますし、私の場合は世の中の仕組みについてきちんと勉強していくことや、できる社会貢献としてヘアドネーションのためにかれこれ2年半くらい髪の毛を伸ばしていて、バッサリとショートにすればそれなりの長さが寄付できると思います。
精神障害を持っていてもできることはあるはず。
同じ状況であれば頑張ってない人と頑張っている人、頑張っている人の方を応援したいと思うのが人間の心理ではないでしょうか。
障害者当事者の現状を変えることができるのは当事者自身ではないのかな。
精神障がい者が一般の方と対等の立場で生活できるような社会になることを望んでいますが、綺麗事でしょうか。
障害者同士だってわかり合えない
私とは別の精神障害者さんではありますが、私は必ず就労したいのだという話をその方にしていました。大変なのは承知だけど諦めたくないのだと。
すると、その方はこのようなことをいいました。「なにも無理して就労にこだわらなくても生活保護がある。だけど親になにかあったときの為に自立できるようにグループホームに入ったほうがいいと。」
要するに私は就労するよりも生活保護を受けてグループホームに入ったほうがいいという提案でした。多少の貯金はあるので、すぐに生活保護とはなりませんが全く働かずにいて、なにか大金が出ていくようなことになればそうなってしまうかもしれません。
私は違和感でいっぱいでした。
まずその方自身が長らく生活保護で生活しており、これからも働く気もなく生活保護を受け続けるつもりなんだというところにガッカリしてしまいました。
その方は体調も安定していてかなり節約を頑張っておられ、アクティブに趣味や旅行を楽しんでおられます。
仕事をする上でその方に難があることはわかっています。しかし少しでも頑張ろうと思うことさえ諦めてしまったのか。という気持ちでした。
元気に動き回れるのに身体があるのに、福祉に頼り続けることを宣言できる方。
私とは噛み合わないと確信しました。
大事な人であれば「そういう考えだと応援もしたいと思われなくる」ことは伝えた方が良かったかもしれない、迷いましたがフェードアウトすることを選びました。
本人いわく見下されるような態度をとられたり結構厳しいことを言われてきた過去もあるようですが、個人的には当たり前だと思ってしまいました。
就労が難しいことは事実であり趣味に生きる選択肢もあるのかもしれない。
しかし昨今の日本の経済情勢の中で周りを見渡してもみんなが何か大変な中で、福祉にどっぷり依存して自立を説くのは、私には理解しがたい考えでした。
障がい者同士でさえ分かり会えないことはたくさんりますね。
昔は傷の舐め合いのような仲間もいましたが、私自身が障害を持ってからの歴も長く、いつまでもそれではいけないと思いました。
障害と付き合う術を会得するのはかなり時間がかかるし、無理して悪化をさせるのが一番良くないです。
しかし諦めたらもう、それ以上にはならないのも事実ではないか。
難しいなと思いました。
【コラム】安楽死
賛否両論あるかと思いますが私は日本にも安楽死という制度はあったほうがいいと思っています。
今の日本社会、みんなが大変で余裕がないせいで人に対して「多目に見る」とかできないんですよね。
重度の障害や病気のある方などが生きていくにはあまりにも世知辛い世の中です。
今、呼吸をしているだけで、ここに存在しているだけで苦しいという方がいらっしゃいます。
たとえばそういう状態で生活保護を受けているのに生活保護に対するたくさんのバッシングと偏見、辛いですね。
生活保護の方を叩くことで自身の生活は向上するのでしょうか。
不正受給の人も中にはいるかもしれません。
しかしそれより、命を繋いでいるセーフティネットとしての機能の方が大事ではないですか?
私自身はなるべく人様のお世話になりたくないですし、自分の食いぶちは自分で稼ぎたいし、やりくりしたいです。
でもこういう問題をみていくと、弱者に厳しいなと思うことはあります。
私自身も何度となく「生と死」について考えました。
一つ思うのは、「自分の死に際は自分で決めたい」ということ。
死ぬ時くらい穏やかに、安らかに、眠るように死んでいきたい。
安楽死に関してはもちろん徹底した法整備や条件はつけるべきです。
簡単に行使するものではないけれど、あったほうが良いのではと思うのです。
自死ほど悲しい死に方ないですよね。
また、もう治る見込みのない難病で常に苦しく、本人が安楽死を強く望んでいる場合など、適用される人の範囲は限定的にあったほうがいいかなと思います。
しかし、こう書いておきながらも倫理的に難しいし、感情的に複雑ではあります。
精神障害者の居場所、作業所の意義
自分の体験記や福祉制度がこうあったらよいのにという、書きたいことはたくさんあるのですがどういった順序でブログを進めていったらよいのかに悩んでしまったので、ここでは「作業所」について書いていこうと思います。
作業所とは精神障害者の方が社会復帰するまでの訓練の場として、日中の居場所として、相談窓口として、様々な理由で利用する日中利用型の福祉サービスです。
私は身体拘束を経験した初めての入院から退院して3年ほど利用していました。
作業にはA型とB型があり、私が通所していたのはB型の方で、より障害の程度が重い人が利用します。前述したような理由で通所します。
A型は実際に最低賃金をもらって働く形です。
A型は利用したことがないので今回はB型作業場について記述していきます。
私の場合、退院しても仕事もできませんし、日中行く場所がありませんでした。
よって、通所することによって生活リズムを正し、他の障害のある方とコミュニケーションし、スタッフの方に困りごとを相談したりしながら簡単な作業を行っていました。
最初はとても戸惑いました。色んな障害の方がいますから、コミュニケーションが難しかったり言動が突飛で驚いてしまったり、とにかく同じ熱量で話せる方はなかなかいませんでした。
なので、生活リズムを正して、体調を良くしてバイトにつなげてやる!という気持ちで通っていました。
しかし、作業場の意義は大きいです。
作業場がなければ私には行く場所がありませんでした。友達と話せるような状態でもありません。
利用者の方には家族がいないとか、高齢だったりで社会復帰ができそうもない方もたくさんおられました。
そういう方にとっては作業場は最後の砦のように感じました。
作業場にいけば人と触れ合うことができて、一人ぼっちではないからです。
スタッフさんも優しく接してくれます。
ただ、私はまだ20代半ばでここから抜け出してやる!という野心のが強かったです。
でもあの時、作業場という場所がなければ私は家に引きこもっていて、他の障害あるの方の境遇を聞いて参考にしたり、家族以外の人と話す機会がなかったでしょう。
精神障害のある方との付き合い方も覚えました。
ずっと家にいて出かける場所がない、遊びに行くお金もないとか、同じように障害のある方と関わってみたいなどの想いがある方は一度見学に行かれてもいいのではないのでしょうか。
悩みが深い方はとくにスタッフさんと面談ができるというのがいいと思います。
つらい気持ちを吐き出しても大丈夫です。
作業場により千差万別だとは思いますが、一般就労で働けていた方には物足りなく感じる側面はあります。
そういう方にはあくまで通過点として利用していただけたらなと思います。
似たような施設として「デイケア」というのもあります。
参考になれば幸いです。
低賃金労働者と生活保護の葛藤
生活保護に対して厳しい考えをお持ちの方が一定数おられるなぁと色々な記事やコメントを拝見して感じています。
その大多数が働いても働いても厳しい水準で生活している方々なんじゃないかなと思いました。
働いていない人が働いてる人と同じような水準で暮らしている、それに不満を感じ頭にきてると感じました。
気持ちはわかります。
しかし生活保護にはそれなりの理由があります。
なので生活保護の人は集団生活、食事は配給制、現金給付はしない、これでも足りないなどの意見をみていると、辛辣だなぁと感じます。
まず、それぞれの背景があって生活保護になっている方達が集団生活をするって難しいと思います。
誰がどのようにその生活をまとめていくのでしょうか。
子育てしてる方だっています。
それに自分で献立を考えを買い物に行き、料理を作るとか、予算をどのように配分してやりくりするとか、全てを管理下に置いてしまうと生活能力がなくなってしまうと思います。社会復帰どころじゃなくなります。
自分の頭で考えて行動を起こすって大事なことですし、全てを奪ってしまうのは人権にも引っかかるなと思いました。
生活保護受給者は犯罪者じゃありません。
自分でできるところは自活したほうがいいです。
また、働きなさいという意見ありますが、生活保護受給者がいざ働こうとして働ける職場がどれくらいあるでしょうか。
例えば、何かの障害があるなどの理由で、仕事が遅い、ミスが多い、コミュニケーションが取りづらい、すぐに体調を崩す、休む、情緒不安定といった方たちを受け入れ共に働いていく力や環境はあるでしょうか。
受け入れる側の技量はどうでしょうか。
受け入れる側の体制が整っているか、そもそも雇ってもらえる場所がないのに働くのはできません。
なので生活保護がまるっきり悪かと言ったら違うのではないかという話でした。
所得水準が低く生活が大変、でも現状どうすることもできないといった方達と生活保護の狭間で揺れている問題な気がします。